【新説】アキハバラの地名由来を調べてみた


こんにちは!新人ライター(16年目)のいずみんです!皆さん、秋葉原は好きですか?アキバが大好きじゃない人はこちらのサイトを見ていないと思いますが、皆さん秋葉原の地名の由来は知っていますか?知っているという方も、その説明に疑問を持つことはありませんか?今回は秋葉原の地名の由来を本気で調べてみました。

※ちょっと長いですが結論は一番下、最後にまとめてあります。長文がつらいという方は、最後だけでも読んでいただけたらと思います。

 

まず秋葉原とは何か

皆さんは「秋葉原」をなんと読みますか?

「アキハバラ」と読む人は…まあ、普通。「あきばっぱら」と読む人はよっぽどのおっさんか、「コンプティーク」誌の愛読書ですかね? (90年代初頭のコンプティーク誌で『偽書信長伝 秋葉原の野望』という連載があったのですが、覚えています?)

実は、昔からの地域住民は秋葉原周辺のことを「あきばっぱら」と呼ぶ人がいます。他にも「駅は『アキハバラ』だけど、正しいのは『アキバ』だからな」と言うおじいさんも昔は居た様な気がします。(注:個人の感想です。)

そういえば正しいのは「アキハバラ」なのか「アキバハラ(あきばっぱら)」なのか……秋葉原と関わるようになって早四半世紀、そんなことも知らずに生きてきてしまったなんて……。ここはひとつ秋葉原の地名由来について本気で調べてみたいと思います。

「秋葉原(あきばっぱら)は、永遠に不滅なんだわさ!」(by 榊 亮介 先生)

 

巷説・秋葉原地名由来

秋葉原の地名由来については様々なところで紹介されていますが、これらの地名由来について現在通説として巷で流布しているものを整理してみました。なお、明らかな誤記誤伝、年代間違い等については除きました。

  1. 1869年(明治2年)に神田相生(あいおい)町で大火が発生。
  2. 大火の被害を憂慮した明治天皇が、現在のJR秋葉原駅付近に「鎮火社(ひしずめしゃ)」を建立。
  3. 東京府は「鎮火社」の周辺に9000坪(約3万平方メートル)の「火除地(ひよけち)」を設置。
  4. 人々はこの「鎮火社」を、江戸時代に火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていた「秋葉大権現(あきはだいごんげん)」が勧請されたものと誤解。
  5. 「鎮火社」を「秋葉様(あきばさま)」「秋葉さん(あきばさん)」と呼ぶ。
  6. 「火除地」を「秋葉原(あきばっぱら)」「秋葉の原(あきばのはら)」と呼ぶ。
  7. これらの呼び方にちなみ「秋葉原駅(あきはばら駅)」ができたが、現在でもこの地域のことを「アキバ」と呼ぶ。
  8. 現在は台東区松が谷に移転したが、「秋葉神社(あきば神社)」(旧「鎮火社」)が「秋葉原」の名の起源を発する。

千代田区、電気街振興会、東京都神社庁公式webサイトの他、個人サイトでも大筋でこのようなものが通説となっていることが確認できました。

※実際の「鎮火社」は皇居の紅葉山から鎮火三神が勧請されて創建されています。
※ここで指す「秋葉大権現」とは、現在の静岡県浜松市にある「秋葉山本宮秋葉神社(あきはやま ほんぐう あきはじんじゃ)」のことです。

時系列については整合性が取れており、大筋ではこのとおりであると思われます。しかし、これらの通説にはいくつかの疑問点があります。

 

通説の疑問点 その1
「鎮火社」を広く信仰を集めていた「秋葉大権現(あきはだいごんげん)」が勧請されたものと誤解。』について

秋葉神社の由緒によりますと

一 御由緒
明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)に思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始である、明治二十一年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる、秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。

と、あります。

つまり、相生町の大火をきっかけに皇居内の「紅葉山」より火防の神である火産霊大神、水波能売神、埴山比売神の三神を奉遷し、三神を祀った社が創建されました。この神社が「鎮火社(ひしずめしゃ)」です。

実際に勧請されたのは「紅葉山」ですが、「紅葉山」と「秋葉山」は字面も良く似ている。文字だけみれば一般の人々が誤解するのも無理はないと考えられます。問題はこれに続く部分です。

5.「鎮火社」を「秋葉様(あきばさま)」「秋葉さん(あきばさん)」と呼んだ。
6.「火除地」を「秋葉原(あきばっぱら)」「秋葉の原(あきばのはら)」と呼んだ。

この二点について、かなり不自然であると考えました。つまり、静岡県浜松市に現存する「アキハ(秋葉)」大権現が勧請されたと誤解されたのならば、「アキハ」様と呼ぶのが自然なのではないのか、という疑問です。広く信仰を集めていた神様だというのならば尚更。信仰を集めているにも関わらず、名前が間違えられるということは通常考えられません。

秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)※公式サイトより引用

この疑問について、「アキバ」に変わったのは下町訛りで「ハ」が言いづらく「バ」になったのだと説明しているサイトもありました。しかし、江戸の下町訛り(いわゆる江戸言葉)の特徴は子音の口蓋化です。「シ」と「ヒ」が入れ替わるという特徴はありますが、「ハ」が「バ」に入れ替わる特徴はありません。「アキハ」が訛って「アキバ」に変わるのは千葉方言に近いものです。これに加えて「鎮火社」創建から移転までがわずか20年であり、短い期間で変化(訛り)が起こったとは考え難いのです。

※江戸言葉の例:「東」ヒガシ>シガシ、「質屋」シチヤ>ヒチヤ、「修羅場」シュラバ>ヒラバ
※「秋葉(アキバ)」の場合、「秋(アキ)」の「キ」が無アクセント状態で平板であり、野田市付近における千葉弁の特徴に近い。
※千葉県の名字では、「秋葉」と書いて「アキバ」と呼ぶ世帯が多い。(2019年現在、千葉県は「秋葉(アキバ)」さんの世帯数が都道府県別 第1位)

【参考資料】

  • 金田一春彦(1954):「音韻」『日本方言学』吉弘文館
  • 杉藤美代子(1996):「母音の無声化 東京と大阪の場合一」『日本語の音 日本音声の研究 3』和泉書院
  • 平山輝男編(1960):『全国アクセント辞典』東京堂
  • 大野晋・柴田武編(1977):『岩波講座 日本語11方言』岩波書店
  • 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編(1984):『講座方言学 5 関東地方の方言』国書刊行会

 

通説の疑問点 その2
「鎮火社」が「秋葉神社(あきば神社)」に改名したのは1930年(昭和05年)であること。』について

さらにこれに加えてもうひとつの疑問点が改名に関してです。実は「秋葉原」という地名の起源だという神社が、「秋葉神社(あきば神社)」となった(名を変えた)のはかなり後になってからです。創建から60年以上、移転から40年以上も経った1930年(昭和05年)に改名しています。何故このタイミングで改名したのでしょうか? 特にこの神社は由来的にも「秋葉大権現」とは元々縁もゆかりも無く、ただ当時の人々に名前を勘違いされていたただけの神社です。通常、わざわざ勘違いされた名前に改名するものでしょうか? それも何十年も経過してからです。少し斜に見ると、「起源を発すると言いたいが為に改名した」のではないか、と疑心暗鬼になってしまいます。

今回はこれらの疑問を解消するため、地名や駅名について実際各方面の資料に当たって調べてみることにしました。

秋葉神社 社殿(東京都台東区)

 

東京の古地図を検証

地名の成り立ちを研究するにあたり、重要なのは古文書や古記録です。そして地図の読解も忘れてはいけません。

『江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京』(人文社)

今回使用した地図資料は『江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京』(人文社)です。明治時代の地図が複数種掲載されている便利な本で、野菊のハッカーさんでもおなじみの書籍です。

東京大絵圖Ⅱ(明治四年)

まずは明治二年に発生した神田相生町の火事が起きてから2年後、明治四年発行の地図を確認します。地図中央の神田川の上に「社火鎮」の文字があり、「鎮火社」の記述が確認できます。

実測東京全圖Ⅲ(明治十一年)

次に明治十一年の地図を確認します。「社葉秋」、つまり「秋葉社」「火除地」「花岡町」の記述が確認できます。ここではじめて「秋葉」の文字が登場します。

東京五千分ノ一Ⅳ(明治二十年)

移転直前の明治二十年の地図には「社神火鎮」、つまり「鎮火神社」、「原ノ葉秋」、つまり「字秋葉ノ原」、そして「花岡町」という記述が確認できます。「鎮火社」は改名したわけではありませんが、地図上で「鎮火社>秋葉社>鎮火神社」という記述の変遷が確認できました。しかし今回使用した地図は「公図」(土地の境界や建物の位置を確定するための地図)ではないので、作成当時、現地での聞き取り調査の結果が地図上に反映されただけであると考えられます。ここから読み解けるのは明治四年は「鎮火社」と呼ばれていたこと。明治十一年には「鎮火社」のことを「秋葉」と記載した地図が存在したこと。明治二十年には「火除地」を「秋葉ノ原」と記載した地図が存在したこと、という事実は確認できます。

しかしながら、ここに書いてある「秋葉社」の読み方が「あきは社」なのか「あきば社」なのか、「秋葉の原」が「あきはのはら」なのか「あきばのはら」なのかまでは読み仮名が振られていない為に読み解けません。そこで、古地図の検討だけでは不十分であり、地図情報以外の資料にあたる必要が出てきました。

【参考資料】

  • 古地図ライブラリー(1996):『江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京』人文社

鉄道等の資料を検証

次に鉄道や駅に関する資料についてあたることにしました。幸い鉄道関係については研究者や記録が多く、はっきりと残っている資料や研究論文もあるので調べることが容易でした。

国立国会図書館

いつもお世話になっている国立国会図書館。読子さんの潜伏先です。

秋葉原貨物駅の記録

国立国会図書館の雑誌コーナーにて「秋葉原貨物駅の記録」という記事を入手しました。以下、駅関係の歴史や主な出来事を年表として記述します。

  • 1887年(明治20年)内務省、鉄道敷設(秋葉原への線路延伸)許可書交付。
  • 1888年(明治21年)東京府より、線路用地の引渡し。
  • 1890年(明治23年)日本鉄道、上野ー秋葉原間の貨物線を開業。貨物専用の停車場(終点)として開設。当初は上野駅からの貨物線を「秋葉原線」と呼び、当駅は「秋葉原貨物取扱所」(あきはのはら)と呼ばれていた。
  • 1906年(明治39年)鉄道国有法に基づき、日本鉄道が国有化。「国有鉄道」管轄になる。
  • 1911年(明治44年)「あきはばら」に変更。
  • 1912年(明治45年)「万世橋駅」開設。
  • 1923年(大正12年)関東大震災により万世橋駅の駅舎焼失。
  • 1925年(大正14年)「秋葉原駅」での旅客扱い開始。上野―東京間の連絡線の高架化。
  • 1928年(昭和03年)第一期工事(西側貨物積卸場)完成。
  • 1931年(昭和06年)高架下を利用しての倉庫営業開始。
  • 1932年(昭和07年)第二期工事(東側貨物積卸場)完成。同時にお茶の水―両国間が開通し、現在の三層構造の駅舎になる。
  • 1964年(昭和39年)東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなる。
  • 1974年(昭和50年)秋葉原駅での貨物営業が廃止される。

このほかに、「秋葉原駅」は下記資料を参照いただくと読みが『「あきはのはら」、「あきばはら」、「あきはばら」と二度の変化を遂げている』との記載が確認できます。

秋葉原貨物駅の記録より

※ただし、漢字表記は「秋葉原」で変わらず。
※なお、Wikipediaには「あきはのはら」>「あきははら」>「あきはばら」と変更されたと記載されている。当該資料では、静岡県浜松市の秋葉神社から分祀した説を紹介。

あきばはら駅の存在

駅名が「あきはのはら」が「あきばはら」になり、「あきはばら」に変更された。その後、1911年(明治44年)から100年以上ずっと「あきはばら」なのです。「あきはのはら」から「あきばはら」に変えた(期間は不明だが、1890年(明治23年)〜1911年(明治44年)の間に読みの変更がなされた)が、「あきばはら」は間違いなので「あきはばら」に戻したのでしょうか?

これだけをみると秋葉原地域は一般的に「アキバ」ではなく「アキハ」と呼ばれていたので駅名を修正したのではないか、と思いたくなりますが、こと駅名に関しては地名と駅名が合わないということはよくある話。「品川駅」が品川区に無かったり、「目黒駅」が目黒区に無かったり、地名では「神戸市三宮町」なのに駅名が「三ノ宮駅」とつけられた例もあり、地名と駅名が合わない駅は多いです。駅名の呼び方だけでは、一般的な呼称を特定することはできません。

また、資料をあたってわかったことがひとつあります。

  • 1928年(昭和03年)第一期工事(西側貨物積卸場)完成。
  • 1930年(昭和05年)「鎮火社」が「秋葉神社」に改名。
  • 1932年(昭和07年)第二期工事(東側貨物積卸場)完成。

「鎮火社」から「秋葉神社」改名のタイミングが秋葉原駅再開発の時期と重なっていることが確認できました。

【参考資料】

  • 中川浩一「秋葉原貨物駅の記録」(2008)『鉄道ピクトリアル No.808(電気車研究会)

口承からの検討

地名学では文献や地図等の解読では解明しきれない部分を、口承などから検討する場合もあります。しかし今回は時代が中途半端に古いので、明治の中頃から昭和にかけてを知っている人を探すのが難航しました。当時を知る高齢の方々が転居やら既にお亡くなりになっていて、該当する調査対象者が見つけることが難航しました。(調査対象者が1名しか見つけられませんでした)しかし、ここで普通の研究者ならばあまり目をつけない資料に注目しました。落語です。

調べたところ、六代目三遊亭園生(1900-1979)師匠の創作落語に「秋葉っ原(あきばっぱら)」という噺が存在していました。内容はというと「安い夜鷹を買いに行ったら自分の女房だった」というひどい話なのですが、神田近辺、秋葉っ原の材木置き場の話があり、間違いなく現在の秋葉原地域周辺近辺のことを題材にした落語です。(江戸初期の佐久間町は材木商の町であり、明治以降も材木商や薪炭商があり材木置き場もあった。) 注目したいのは、園生師匠が口承の調査対象者であることと、1911年(明治44年)に「秋葉原駅(あきはばら駅)」になったにもかかわらず、この周辺の地名を「秋葉っ原(あきばっぱら)」と作中で紹介している点です。つまり「あきば」という名称が広く一般に認識されていなければ、作品として発表されないだろうということでした。

※神田川から運河を通り、佐久間町の船着き場、佐久間河岸(現在の秋葉原公園)から材木が運ばれた。
※子供の頃(昭和初期)にあきばっぱらの材木置き場で遊んだことがあるとのこと(神田佐久間町一丁目で生まれ育った70代女性談)

これらのことから当時から(明治から昭和にかけて)一般的に「火除地」が「秋葉原(あきばっぱら)」「秋葉の原(あきばのはら)」と呼ばれていたことは間違いないと推察されます。

 

しかしここで調査は難航

さて、ここで困りました。現在の通説について様々な方面から検証してみた結果、なんとなくしっくりこないものの、決定打に欠ける資料(落語だけではあくまで推論の域を出ない)等は発見できませんでした。やはり「アキハ」が言い難かったから「アキバ」になったのでしょうか? そう諦めかけていた時、地図上でとある施設が目に留まりました。『向島秋葉神社』、なんと秋葉原からもほど近い向島(東京スカイツリーの付近)に「秋葉神社」という名前をみつけました。これは今回の調査に関係があるかもしれない。我々はその謎を解き明かすべく、墨田区の奥地へと向かった。

 

神社関係の資料を検証

「向島秋葉神社」は秋葉原からもほど近い川向こうの神社ですが、名前も気になり調べてみることにしました。しかしこの神社、何故だかウィキペディアにも項目が無い。とりあえず近いし、現地に赴いてみることにしました。(フィールドワーク実施日:2019年6月6日)

秋葉神社 参道

秋葉神社 社殿

小さな神社ですが、手入れは行き届いていて小奇麗な印象。

秋葉神社 狛犬

秋葉神社 手水舎

そして、それは入ってすぐに発見できました。

秋葉神社 由緒

秋葉神社 御由緒

「昔この地を五百崎の千代世の森と云う千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応02年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感を得てこの社に詣り祈願の利益をうけ、当時諸地村の長百姓岩田興右衛門を通じ寺社奉行に願出で上州沼田城主本多正永の報賽にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と稱して社殿を造営し又千葉山万願寺を興して別当となった。
爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保02年(1717)に神祀管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と稱し別当万願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、昭和20年戦災にかかり昭和41年氏子崇敬者の奉賽により現社殿を再建した。
社務所 昭和61年10月18日建立」
秋葉神社境内案内板より

秋葉神社 由緒

キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!

>鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け
>享保02年(1717)に神祀管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。

なんと、江戸時代に「鎮火」の神として広く信仰を集めていた神社を見つけました。しかもこの神社の呼び方は「秋葉神社(あきば神社)」なのです!「鎮火」の神と「鎮火社」、「紅葉山」と「秋葉山」、当時の人々が勘違いするのも無理はありません。さらに

>明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と稱し別当万願寺を廃した。

つまり明治元年神佛分離令の施行により、「千葉山万願寺」だったものを「秋葉神社」(向島)と改名していました。

※地図等では「向島秋葉神社」と表記される場合もありますが、正式名称は「秋葉神社(あきば神社)」
※以下、引用以外は「秋葉神社」(松が谷)、「秋葉神社」(向島)と表記する。

 

 

繋がった…全てが繋がりました。

さらに調べたところ、この「秋葉神社」(向島)近辺は、天保年間(江戸時代)には既に有名な観光地だったようです。歌川広重の「江戸名所百景」にも「江戸一の紅葉の名所」として紹介しています。諸大名や大奥にも信仰も篤く、明治になってからも一日の清遊をかねて盛んに参拝が行われていた、とのこと。

名所江戸百景 請地秋葉の境内 歌川広重

国立国会図書館のサイトでも「秋葉大権現社(あきばだいごんげんのやしろ)」と紹介されており、その他当時の資料でも(当時の正式な名称は「千葉山万願寺」という名前でしたが)「秋葉大権現宮」や「秋葉大権現社」として紹介されている書物もあることから、江戸時代に信仰を集めていた「秋葉大権現」(あきば様)というのはこちらの神社(「秋葉神社」(向島))のことで間違いないと確信しました。秋葉大権現として親しまれていたので、神佛分離令を機に「秋葉神社」(向島)に改名したというのも自然な流れです。

秋葉神社

つまり、

  1. 江戸時代から鎮火の神として「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」として信仰を集め、一般にも広く知られた(寺ですが)神社が向島にあった。
  2. 現在の秋葉原の地に「鎮火社」が建立された時、秋葉原からほど近い向島に鎮火の神として有名な「秋葉大権現」があったので、そこから神さまが勧進されて来たと勘違いされた。
  3. 「秋葉大権現」つまり「あきば様」が来たので「鎮火社」周辺も「あきば」や「あきばのはらっぱ」、「あきばっぱら」と人々から呼ばれる様になった。
  4. しかし、残念ながら「秋葉大権現」で有名だった「秋葉神社」(向島)が震災や戦災で被災し、再建されるまでに長くかかってしまった。
  5. これにより「秋葉神社」(向島)が人々の記憶から薄れてしまった。
  6. そして、いつしか「秋葉神社」(向島)は静岡県浜松市にある「秋葉山本宮秋葉神社」と混同されるようになってしまった。

以上の順で変遷したと推測されます。

結論

「秋葉原」という地名の真の由来は「秋葉神社」(向島)にあった!

 

 

まとめ

さて、これらのことをふまえて年表に整理すると下記のようになります。

  • (元禄~江戸末期)「鎮火」の神として信仰を集めた「千葉山万願寺」(秋葉大権現)が向島にあった。
  • 1868年(明治元年)神佛分離令の施行により、「千葉山万願寺」を「秋葉神社」(向島)と改名。
  • 1869年(明治02年)神田相生町で大火。
  • 1870年(明治03年)大火の被害を憂慮した明治天皇が「鎮火社」を建立。
  • 1890年(明治23年)貨物駅として「秋葉原駅」が開設。「鎮火社」は台東区へ移転。
  • 1923年(大正12年)関東大震災で「秋葉神社」(向島)、社殿倒壊。
  • 1925年(大正14年)上野―東京間の連絡線の高架化。
  • 1928年(昭和03年)第一期工事(西側貨物積卸場)完成。
  • 1930年(昭和05年)「秋葉神社」(向島)、復興。「鎮火社」を「秋葉神社」(松が谷)に改名。
  • 1932年(昭和07年)第二期工事(東側貨物積卸場)完成。現在の三層構造の駅舎になる。
  • 1945年(昭和20年)「秋葉神社」(向島)、戦災にかかる。
  • 1966年(昭和41年)「秋葉神社」(向島)、氏子崇敬者の奉賽により現社殿を再建した。

ポイント

  • 皇居の「紅葉山」から鎮火の神が勧請されて現在のJR秋葉原駅付近に「鎮火社」が創建。
  • 江戸時代に「鎮火」の神として信仰を集めていた「秋葉神社」(向島)、「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」が勧請されたものと誤解。
  • その誤解から人々は「鎮火社」を「秋葉様(あきばさま)」「秋葉さん(あきばさん)」と呼んだ。
  • そして秋葉(あきば)の原っぱなので「火除地」を人々は「秋葉原(あきばっぱら)」「秋葉の原(あきばのはら)」と呼んだ。

という流れが導き出されました。つまり、

  • 「秋葉原」という地名は「秋葉神社」(向島)に由来。
  • 「秋葉神社」(向島)が勧請されたと勘違いしてた人々が「アキバ」と呼ぶようになった。

JR秋葉原駅

いかがでしょうか? 今回はずいぶんと長文になってしまいましたが、秋葉原のことについて考えるきっかけのひとつにしていただけたらな、と思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!(和)

この記事を書いた人

和泉 宗吾
和泉 宗吾
和泉宗吾@いずみん
千葉県在住の週末都民。フリーライター兼、野生のプロデューサー。美味しいものを求め東奔西走。秋葉原プラスでは企画や催事等のお手伝いをさせていただいております。よろしくお願いいたします。