【神田祭】外神田十二睦『旅籠町会』


zp_P5070034さてやっと7つ目の町会の紹介となる。7番目は旅籠町会だ。この町会にはベルサール秋葉原(旧日通秋葉原本社ビル)、ソフマップ、アキバカルチャーズゾーン、パセラリゾーツAKIBAマルチエンターテインメントと神田川まで続く広大な商業地域がその範囲となっている。

 

旅籠町会

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旅籠町には現在話題の『(仮)外神田1丁目計画』の開発地域を含む一帯が町会の範囲となっている。居住空間(マンション等)がほぼ無いので町会に所属するのは困難な地域の一つと思われる。

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 この周辺は、かつて神田旅籠町とよばれていました。
昌平橋の北側にあたるこの地域は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力をいれていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
しかし、天和二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町、柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848〜1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。

※外神田一丁目にある旅籠町の碑より転載

zp_P5070036まずは現在の地図を見てみよう。

zp_P5070040現在の住所では、外神田一丁目1番5号~7号、4番1号~8号、18号~23号、3番、5番~9番、外神田三丁目1番、12番〜13番がその地域となる。簡単に言えば、中央通り、神田明神通り、昌平橋通り、神田川に囲まれた一角と神田明神通りの両側、という感じだ。

zp_P5070043江戸時代の地図では大きく加賀藩講武所附町屋敷と書いてある場所が目立つので探しやすい。他は小さな町名が幾つも観れるのが特徴だろう。現在(2015年現在)解体中の「(仮)外神田1丁目計画」がどのようになるかで、またこの旅籠町も大きく変わることになりそうだ。

【詳細情報】
■町会名:旅籠町会
■該当地域:外神田一丁目1番地5号~7号、4番地1号~8号、18号~23号、3番地、5番地~9番地、外神田三丁目1番地、12番地〜13番地
■碑の場所:昌平橋束橋詰広場
■サイト等:なし
■千代田区サイト:
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/kandahatago.html

 

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秋葉原プラス 編集部
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